『銀河の一票』第9話を見終えたあと、不思議と光留の言葉が頭から離れなかった。
あかりに向かって、「心はここ」とお腹のあたりを指したあの場面である。
胸にあるのは自意識。頭にあるのは思考。そして心はもっと深いところにある。
発声の話なのかもしれない。けれど、私にはそれだけには思えなかった。
今回の『銀河の一票』は都知事選が始まる回だった。ポスター貼りの準備が進み、ボランティアが集まり、光留もついにウグイスとして参加する。物語としては選挙戦開幕の回である。
しかし私の中に残ったのは、選挙の勝敗ではなかった。
そういえば、このドラマは宮沢賢治の言葉や作品を何度も引用している。
最近いくつかの作品を読み返してみたのだが、『銀河鉄道の夜』も『よだかの星』も『マリヴロンと少女』も、なぜか「自分はどうなってもいい」と願う人たちが印象に残った。
もちろん、私は宮沢賢治の全作品を読んだわけではない。たまたま目にした作品がそうだっただけかもしれない。
それでも第9話を見ながら、ふと思った。
『銀河の一票』が描こうとしているのは、誰か一人が世界を背負う物語ではないのではないか。
むしろ、「半分こしましょう」という物語なのではないか、と。
第9話あらすじ(簡単に)
都知事選の告示日が迫る中、あかり陣営は第一声に向けた準備を本格化させる。ポスター貼りのボランティア集めや演説の練習が進み、敦史や大樹、光留らもそれぞれの形で選挙戦を支えることに。
一方、雨宮の調査によって、新座学部長が過去に関わった治験と鷹臣との接点が浮上。さらに民政党では離党者が相次ぎ、風間陣営への合流も始まるなど、都知事選を前に政治情勢も大きく動き始める。
そして告示日直前、光留の言葉によってあかりは自分自身の声と向き合うことになる。選挙戦の幕開けを目前に、それぞれが抱える過去と未来が交差する回となった。
光留が教えてくれた「心はここ」という話
胸にあるのは自意識
今回の第9話で最も印象に残ったのは、意外にも選挙戦そのものではなかった。
演説の練習に悩むあかりに対して、光留がかけた言葉である。
光留はまず、胸に手を当てたあかりに向かって「そこにあるのは自意識」だと言った。
どう見られたいか。
どう見られたくないか。
期待に応えたい。
失敗したくない。
そうした感情は決して悪いものではない。むしろ人前に立つ以上、誰もが抱く自然な感情だろう。
都知事選を目前に控えたあかりもまた、「候補者らしくあらねば」という思いを抱えていたはずだ。
けれど光留は、そこが心ではないと言った。
頭にあるのは思考
次にあかりは頭を指した。
すると光留は、「ここにあるのは思考」と答える。
こうしなければならない。
こう話すべきだ。
私はこうあるべきだ。
政治の世界はもちろん、私たちの日常も「正解探し」に満ちている。
正しい言葉。
正しい行動。
正しい選択。
考えることは大切だ。しかし考えれば考えるほど、本当に伝えたいものから遠ざかってしまうこともある。
あかりの演説がどこか硬く見えたのは、言葉を届けようとするあまり、「正しい候補者」を演じようとしていたからなのかもしれない。
心はもっと深いところにある
そして最後に、光留はお腹のあたりへ手を置いた。
「心はここ」
その言葉を聞いたとき、私は丹田という言葉を思い出した。
武道や禅で語られる、人の中心。
日本語にも「腹をくくる」「腹に落ちる」「腹を割る」といった言葉があるように、昔から人は理屈や感情よりも深い場所を腹に見てきた。
光留が伝えたかったのも、きっと同じことだったのだろう。
胸の自意識でもない。
頭の思考でもない。
もっと奥にある、自分自身の本当の声。
だからこそ、光留に促されたあかりの口から出てきたのは、政策でも公約でもなかった。
「私、私でいいの……?」
という問いだった。
都知事候補でもない。
誰かの期待に応える存在でもない。
ただの月岡あかりとしての言葉だった。
そして私は、この場面を見ながら不思議なことを思い出していた。
そういえば宮沢賢治の物語にも、自分より誰かを優先しようとする人たちがたくさんいたな、と。
宮沢賢治の物語には「私を使ってください」という人がいる
カムパネルラも、よだかも、自分を後回しにする
『銀河の一票』はこれまでも宮沢賢治の言葉や作品を何度も引用してきた。
だからだろうか。光留の言葉を聞きながら、私は賢治の物語に登場する人たちのことを思い出していた。
もちろん、私は宮沢賢治の全作品を読んだわけではない。
それでも、これまで目にした作品には、不思議なほど「自分を後回しにする人」が多かった。
『銀河鉄道の夜』のカムパネルラ。
『よだかの星』のよだか。
そして今回気になった『マリヴロンと少女』のギルダ。
彼らは皆、どこかで「自分はどうなってもいい」と考えているように見える。
それは美しい願いでもある。
誰かのために生きたい。
誰かを助けたい。
世界を少しでも良くしたい。
宮沢賢治の作品が今も多くの人の心を打つのは、そんな祈りのような優しさがあるからなのだろう。
『マリヴロンと少女』のギルダが求めていたもの
その中でも印象的だったのが、『マリヴロンと少女』に登場するギルダだった。
ギルダは偉大な歌手マリヴロンを心から尊敬している。
いや、尊敬というより憧れに近いのかもしれない。
彼女はマリヴロンに向かって、
「あなたのためなら百ぺんでも死にます」
とまで語る。
そして、
「私を教えて下さい」
「私を連れて行ってつかって下さい」
とも願う。
そこには、自分自身の人生を生きたいという願いよりも、誰か偉大な存在のために役立ちたいという思いが見える。
少し極端な言い方をすれば、
「私を使ってください」
という願いである。
私はそこに、どこか鷹臣や茉莉の姿を重ねてしまった。
世界のために。
誰かのために。
より大きな幸福のために。
そう考える人ほど、自分自身を後回しにしてしまうのかもしれない。
マリヴロンは何を伝えたかったのか
けれど、面白いのはマリヴロンの方だった。
ギルダが見ているのは、輝く歌手である。
ところがマリヴロンは、自分だけが特別だとは考えていない。
むしろ彼女が語るのは、
正しく清く働く人は、みな世界を作っている。
という考え方だった。
歌手も。
牧師の娘も。
名もない誰かも。
みんな同じように、自分の後ろにひとつの世界を作っている。
そんな話をしているように私には読めた。
だから二人の会話は、どこか噛み合っていない。
ギルダはマリヴロンを見上げている。
けれどマリヴロンは、「私を見上げなくていい」と語っている。
そのすれ違いが妙に印象に残った。
そして第9話を見終えた今、その言葉はどこか『銀河の一票』にも重なって見えるのである。
鷹臣はなぜ全部背負おうとしたのだろう
瑠璃を救えなかったことが転機だったのか
ここまで考えていて、私はふと鷹臣のことが気になった。
もし第9話が「半分こ」の物語だとしたら、鷹臣はその対極にいる人物だからだ。
彼はいつも何かを背負っている。
党の未来も。
流星の将来も。
そして、おそらくは新座問題も。
もちろん、それが政治家というものなのかもしれない。
けれど、以前の鷹臣は本当にそういう人物だったのだろうか。
茉莉が尊敬していた父。
瑠璃が人生を共にした相手。
その頃の鷹臣は、今よりずっと理想に近い場所にいたような気がする。
だから私は考えてしまう。
もしかすると瑠璃の死が、鷹臣を変えたのではないかと。
世界全体の幸福と、一人の幸福
『銀河の一票』では、宮沢賢治の
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
という言葉がたびたび登場する。
けれど、この言葉は案外難しい。
世界全体を幸福にしたいと思うことと、目の前の一人を救うことは、必ずしも同じではないからだ。
もし鷹臣が瑠璃を救おうとしていたのだとしたら。
もし新座の治験に期待を寄せていたのだとしたら。
それは決して悪意からではなかっただろう。
むしろ逆だ。
誰かを救いたかったからこそ、より大きな力を求めたのかもしれない。
厚労大臣では足りない。
もっと上へ。
もっと大きな権限を。
もっと多くの人を救える場所へ。
そんなふうに考えるようになったとしても、不思議ではない。
だが、その先で本当に瑠璃は救われたのだろうか。
新座問題の先にあるもの
現時点では、新座に何があったのかはまだ分からない。
鷹臣が何をしたのかも分からない。
だから今の段階で善悪を決めるつもりはない。
ただ、第9話を見ていて思ったのは、新座問題が単なる不正やスキャンダルの話には見えないということだった。
むしろその奥には、
「誰かを救うために、何を犠牲にしたのか」
という問いがあるように思える。
世界全体の幸福。
それは確かに尊い理想だ。
けれど、その理想を追い続けるうちに、一人で荷物を抱え込みすぎてしまった人がいるのだとしたら。
鷹臣という人物は、そんな悲しさを抱えているようにも見える。
そして第9話は、その鷹臣とはまったく違う景色を見せていた。
第9話で見えた「半分こ」の政治
敦史も大樹も主役だった
そして第9話で私が最も心を動かされたのは、選挙の準備を進める人たちの姿だった。
敦史は音響やイベント運営の段取りを引き受けた。
大樹は足りないボランティアを集めてきた。
やまさんは音響を担当し、光留はウグイスとして力を貸すことを決めた。
誰も都知事候補ではない。
誰も主役ではない。
けれど、その誰か一人が欠けても選挙は成立しなかっただろう。
印象的だったのは、敦史が語った言葉である。
みんなで酒を飲むのも楽しいけれど、自分の持っている力を生かして誰かの役に立てることが嬉しい。
だからまだまだ生きてやろうと思える。
その言葉を聞きながら、私は『マリヴロンと少女』を思い出していた。
世界を作っているのは、特別な誰かだけではない。
それぞれが持っているものを持ち寄ることで、少しずつ世界は形になっていく。
第9話で描かれていたのも、そんな景色だったように思う。
誰か一人が世界を背負わない
今回の選挙は、これまで私たちが見慣れてきた政治ドラマとは少し違って見えた。
普通なら、主人公が立ち上がる。
カリスマが現れる。
一人の強いリーダーが物語を動かしていく。
けれど、あかり陣営にはそういう人物がいない。
いや、あかり自身が「私は不完全です」と宣言している。
だから支え合う。
だから頼る。
だから誰かが足りない部分を補う。
それは効率が悪いのかもしれない。
遠回りなのかもしれない。
それでも第9話を見ていると、不思議とこちらの方が強く見えた。
一人で世界を背負うのではなく、みんなで少しずつ持つ。
そんな政治の形があるのかもしれないと思えたのである。
「安心」はみんなで持つものだった
第8話で示された「8つの安心」。
私は最初、それを政策の話だと思っていた。
住まい。
仕事。
子育て。
教育。
介護。
医療。
災害。
多様性。
そして都政。
もちろんそれらは政策でもある。
けれど第9話を見ていて気づいた。
あかりたちが語る「安心」とは、制度だけを指しているわけではないのだ。
困ったときに頼れること。
苦しいときに支えてもらえること。
全部を一人で抱え込まなくていいこと。
そう考えると、「安心」とは社会保障の話である前に、人と人との関係の話なのかもしれない。
だから私は、茉莉の「半分こしましょう」という言葉を思い出した。
あれはプリンの話だった。
けれど今になって振り返ると、あの言葉はこのドラマが描こうとしている政治そのものにも聞こえる。
誰か一人が我慢するのではなく。
誰か一人が背負うのでもなく。
みんなで少しずつ持つ。
『銀河の一票』が目指しているのは、そんな「半分こ」の政治なのかもしれない。
まとめ|『銀河の一票』は自己犠牲の物語ではないのかもしれない
第9話を見終えたあと、私はずっと光留の「心はここ」という言葉のことを考えていた。
胸でもない。
頭でもない。
もっと深いところにあるもの。
そこから始まった連想は、いつの間にか宮沢賢治の物語へつながっていた。
もちろん、私が読んだ作品はほんの一部に過ぎない。
それでも、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラも、『よだかの星』のよだかも、『マリヴロンと少女』のギルダも、どこか「自分はどうなってもいい」と願っているように見えた。
だからこそ、第9話で描かれた景色が印象に残ったのかもしれない。
敦史がいて。
大樹がいて。
光留がいて。
蛍がいて。
北斗がいて。
そしてあかりがいる。
誰か一人が世界を救うのではなく、それぞれができることを持ち寄っている。
その姿は自己犠牲というより、分かち合いに近かった。
私はこれまで、「半分こしましょう」という言葉をただの優しい言葉だと思っていた。
けれど今は少し違う。
あれは、この物語が目指している社会の形なのかもしれない。
全部を一人で抱えなくていい。
全部を一人で背負わなくていい。
少しずつ持ち合えばいい。
そんな考え方が、「安心」という言葉の中にも流れている気がする。
そして、その対極にいるように見えるのが鷹臣であり、新座問題なのだろう。
彼らが何を抱え、何を背負い、何を失ったのか。
その答えはまだ分からない。
ただ、第9話を見ていて思った。
もしかすると『銀河の一票』が探しているのは、「世界全体の幸福」の先にあるものではない。
世界を救う誰かではなく、世界を少しずつ支え合う人たちの姿なのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はもう一度、茉莉の「半分こしましょう」という言葉を思い出していた。
